紅花と最上川

紅花は山形県の県花となっていますが、それ以上に県のシンボルと言っても過言ではありません。江戸時代より紅花の一大産地として全国に名声を誇っていました。この地でいつ頃から耕作されていたかは判然としませんが、文献では、文禄・慶長年間(西暦1590年代)には既に課税されるほどの収穫があったとされています。(北前船交易により一世を風靡するようになるのはもう少し先であります)
山形県で産出される紅花は当時から国内一級の品質を誇り、京都の高級織物には欠かせない染料でした。山形県特に村山地方の土壌が良質紅花の生産には天下無比と言われるほど適しており、これが他地区を凌駕する一番の要因でしたが、また生産量が伸びたもう一つの原因は、当時の村山地区の支配的構造の特殊性にもよるといわれています。最上家断絶の後、この地域は細かな支配割りになっていきます。中には幕府の公領も含まれていました。この為紅花の生産・流通が大名による統一的な管理下には置かれず、紅花を扱う商人と生産者との間にある種自由主義的農村市場が成立したからとも云われています。需要の増大と農民の生産意欲向上が、現代的な市場経済を形成していたわけです。1672年の西廻り航路の開発と最上川舟運によってさらに大量輸送化が図られ、質、量とも圧倒的なシェアを誇るまでになりました。
芭蕉を尾花沢で接待した鈴木清風は、まさにこの紅花で大成した人物であり、その財力は、当時としては破格のものがありました。
[ヒント: 紅花探訪 URL http://www.yamagatakanko.com/beni/]
【紅花大尽:鈴木清風? 清風は尾花沢で芭蕉主従を十日間ももてなしています。しかも芭蕉はこの接待を喜んで受けています。清風は芭蕉の心をしっかりとつかめる気配りの人だったようです。芭蕉は清風を「人物卑しからず」と評していますが、確かに、金持ちながら決して成金的ではなく風流を理解する教養人だったようです。彼に関するエピソード2題
紅花大尽現る:清風が持ち込んだ紅花を、これをよく思わない江戸の問屋達が不買運動を行ない、怒った清風が持参した大量の紅花を、品川の海岸で燃やしてしまう事件が起こりました。すると江戸の紅花市場はたちまち高騰しましたが、実はこれは清風が仕掛けた作戦で、清風は高騰した市場で持ち込んだ紅花を高値で売ることができ江戸の問屋達をまんまと出し抜いたというもの。しかもこれにはまだ続きの話があり、これで莫大な利益をあげた清風はこれが通常の商いで儲けたものではないといって、吉原を三日間全て借り切り遊女達の休養にあてたというエピソードです。清風のキップの良さを表す逸話には違いありませんが、どうもこれは全くのデマのようです。当時江戸では紅染屋は存在せず、紅花が流通する商品にはなっていなかったのですからこの話の前提そのものが怪しいと言わざるを得ないのです。でも愉快な話ではあります。
恋のさやあて:三浦屋お抱え遊女で、当時吉原随一といわれた高尾太夫をめぐって、仙台候伊達陸奥守綱宗と恋のさやあてを行なったというもの。先の事件で感激した高尾太夫に貰ったというのが鈴木家秘蔵の柿本人麻呂像ですが、これもどうもデマのようです。高尾太夫の生存した時期と清風の活動時期とどうも合わないらしい(?)。こうしたエピソードは、多分に快男子“清風”の人柄を表すことに重点がおかれていたのかもしれません。まあいづれにしても、その財力は相当なものであったようです。】
[ 最上紅花の歴史 ]
河北町総合交流センター「サハトべに花」 監修:河北町郷土史研究会会長 槇清哉氏
| 西 暦 | 和 暦 | こ と が ら |
|---|---|---|
| 前3000年頃 | 紅花の原産地はエジプトといわれている。ミイラを包んだ布の中に紅花染めがあるという。 | |
| 前100年頃 | 中国の文献によれば、漢の張騫がシルクロードを通ってきて、紅花を中国に伝えたといわれている。 | |
| 550年頃 | 飛鳥時代 | 欽明天皇の頃、大陸文化の伝来と共に紅花も朝鮮から伝えられた。 |
| 700年頃 | 奈良前期(文武期) | 大和朝廷では、大蔵省に織部司、宮内省には内染司という役職をおいて、染職に当たらせた。紅染のほか藍染も行われ上流貴族の衣類を美しく染めた。 |
| 900年頃 | 平安後期 | 全国68ヵ国中の24ヵ国に、男子1人20匁の干花を納税義務化して、必要量を確保した。 |
| 1400年以降 | 室町時代 | 庶民の生活が向上するに伴い、紅染が普及し、紅花の生産も増大するようになった。 |
| 1577年 | 天正5年7月15日 | 白鳥十郎長久が織田信長に名馬を贈った時の返礼品の中に、紅50斤が入っていた。 |
| 1579年 | 天正7年8月28日 | 最上義光が重病にかかり、平癒すれば紅花1貫200匁等を奉納するという祈願文を、湯殿山権現に差出した。 |
| 1573年~ | 天正の頃 8月28日 | 安楽時の信徒が本山の新門(教如上人)様に紅花4斤外を志納した。この頃からこの地方に多く栽培されるようになった。 |
| 最上地方の紅花は上総国(千葉県)長南地方から伝えられたといわれている。 | ||
| 1650年~ | 江戸前期 | 最上川沿いの肥沃な土地に、多く栽培されるようになった。やがて内陸産の「最上紅花」は、質量共に全国最上位を占めるようになった。 |
| 当地では生花から紅餅(干花)を作って、それを上方に出荷した。 | ||
| 1反歩(10アール)からの生産量は紅花3貫目ぐらいであった。 | ||
| 紅餅32貫目を「1駄」といい、取引は駄単位で行われた。 | ||
| 内陸地方の「最上紅花」の総生産量は一口に「最上千駄」といわれ、そのうち3割位を谷地商人が扱った。1駄の値段は年により違うが平均45両位であった。 | ||
| 紅花出荷は大石田から川船に積まれ、酒田で海船に積みかえられ、敦賀-琵琶湖を通って、京都や大阪へ送られた。 | ||
| 1689年 | 元禄2年 | 松尾芭蕉が奥の細道の行脚途中、次の句を読んだ。 |
| 眉掃を俤にして紅粉の花 | ||
| 行末は誰が肌ふれむ紅の花 | ||
| 1735年 | 享保20年 | 京都の紅花問屋仲間の「稲荷講」が公認され、生産地の直買いが禁止された。その後紅花問屋が倒産したといって、5年間に7000両の代金不払いがあった。 |
| 江戸前期 | この頃、生産地では「花市」が開かれ、上方から買人が出向いて来て賑わった。 | |
| 1741年 | 元文6年 | 谷地荷主代表柊屋甚右衛門・青柳屋喜惣治が上京し、二条役所に稲荷講の不正事実を訴えた。前の二人は稲荷講から最上商人の代表権を否認されたので、支援のためさらに谷地から3人、寒河江から2人が上京した。 |
| 1765年 | 明和2年 | 京都稲荷講14軒の独占権が否認され、紅花の取引は自由になった。 |
| 1777年 | 安永6年 | この年、1駄の値段は97~105両で最高であった。 |
| 1802年 | 享和2年 | この年、1駄の値段は24~28両で最低であった。 |
| この地方は寛文の検地(1672~73)の結果、貢祖率が高く、特別措置が講じられたが、なおその負担に苦しんできた。 | ||
| 当地の人々の勤勉さが紅花栽培の苦しさに耐えて、量産を続け、紅花の売上代金で高額の納税をはたしてきた。 | ||
| 1853年 | 嘉永6年 | 堀米四郎兵衛家屋敷(紅花資料館)の武者蔵が建立された。 |
| 1863年 | 文久3年 | 堀米家屋敷(紅花資料館)の御朱印蔵が建立された。 |
| 幕末になると養蚕業が盛んになり、中国産の紅花が輸入されるようになった。 | ||
| 1868年~ | 明治以降 | 明治以降、西洋から化学染料が輸入されるようになり、国産紅花の生産は急激に減少し、やがて完全に姿を消した。 |
| 1877年 | 明治10年 | 山形県では東京で開かれた「第1回内国博覧会」に紅花を出品し、復興をはかろうとした。 |
| 1899年 | 明治22年 | 皇太神宮遷宮式に当たり、高島屋を通して岩渕店に用命があり、必要量の紅餅を納入した。 |
| 1928年 | 昭和3年 | 天王御即位式に高田装束店を経て、出羽村農会に依頼があり、契約を結んで納入した。 |
| 1965年 | 昭和40年 | 「山形県紅花生産組合連合会」が設立された。 |
| 1980年 | 昭和55年 | 河北町は「紅花の町」を標榜し、「紅花」を町の花に決定した。 |
| 1984年 | 昭和59年 | 河北町は堀米四郎兵衛家から、家屋・屋敷・諸道具の寄贈を受け、「紅花資料館」として開館した。 |
| 1986年 | 昭和61年 | 紅花資料館内に「紅の館」が完成した。 |
最上川は山形県のほぼ全地域を縦断して、しかも山形県のみを流れる大河です。そのことは最上川舟運による恩恵をどの地域も受けることを意味しています。山形県産の紅花は、最上川流域で生産された「最上紅花」といわれて重宝されました。この最上紅花が一世を風靡した時代は、享保雛以降有職雛や古今雛などお雛さまが全国的に爆発的に広がっていく時代とまさしく合致しているのです。紅花交易で得られた莫大な財貨によって買い求められたお雛さまが、現在でも雛の名品として県内各地に数多く残っている理由がまさにこのことなのです。
ここ山形は、県内の主要施設を回れば、殆どあらゆる時代のお雛さまを鑑賞することができるという、全国でも稀な土地といえます。
北前船とは
「北前船」とは、日本海から下関を回り瀬戸内海に入る北国船を瀬戸内の人が称した呼び名です。有名無名の無数の船主がいたといわれ、その数は定かではありません。この北前船はいわゆる輸送専門の現在の貨物トラックなどと違い、船自体が商社のような働きをしていました。地域価額差を巧みに利用し、諸国の産物を運びながら売買することによって大きな利益をあげていました。ルーツは近江商人の「諸国物産回し」といわれ、京の古着を会津で売って大儲けしたことがはじまりとされています。
1672年河村瑞賢によって西廻り航路が確立されると、紅花の輸送量も飛躍的に伸びていきます。最上紅花が京で重宝されたのはその質もさることながら、最上川舟運とこの北前船によって安定的な数量を確保できたからと言わざるをえないのです。
【北前船とは、菱垣廻船・樽廻船で代表される賃積船に対し、大阪を起点に瀬戸内海~日本海を運航して、松前の国に至る買積船の呼称である。
買積船の通称として北前船と呼ぶようになったのは、近年のことである。瀬戸内で北(日本海)に向う買船(ばいせん)・あるいは松前地に向う買船という意味で、北前と呼称されていたと云われている。もともと北前船は買積船に対する瀬戸内の呼称で、地域によって買船(ばいせん)・江差では廻船と呼ばれるなど、それぞれの地方で、独特の呼称があったが、最近商業経済史や海運史などの研究が高まり、買積船の呼称として、北前船が一般的になったようである。
北前船は船型の形式を指すものではなく、廻船の性格、むしろ一種の商取引の形態と称すべきもので、物資の流通が未発達に起因する生産地(供給地)と消費地(需要地)の価額差を利用し、商品を遠隔地に運んで販売し、より利潤を高めようとする商法である。< 中間略 >
さて北前船は、商品流通が発達し、地域による価額差がなくなると、消滅するという運命を担うもので、その時期は1900年(明治30年代)である。それは洋型帆船(帆前)、さらに蒸汽船による賃積が発達したためである。北前船時代は1790年~1900年にわたる約100年間で、その中で活躍した花形はベザイ船(平在・弁財)である。 <北海道江差町ホームページより抜粋>
北海道 江差町ホームページ
URL http://www.hokkaido-esashi.jp/kankou/kitamaebune/top.htm 】
やまがたの歩き方 - やまがたのお雛さまを訪ねて -
山形県には県内だけを貫流する一級河川「最上川」が流れています。最上川は山形県にとって単なる大河ではなく、上方や江戸の財貨・文化を運び当地の経済的精神的土壌の創成に大きく関わってきた文字通り山形の母なる川です。しかも県内4つの地域(置賜、村山、最上、庄内)を全て流域としていますので、最上川の恩恵を受けない地域はないといっても過言ではありません。北前船・最上川舟運という一大物流ルートがこの地にもたらしたものは、有形無形その数知れず、お雛さまはそうした北前船・最上川の恩恵の一部なのです。
お雛さまの見学を目的にやまがたを回遊する場合、この最上川舟運に沿って日本海の港町酒田市から出発することも可能ですが、首都圏からの交通アクセスを考慮すれば、山形新幹線を利用する方法や山形空港や庄内空港を起点として旅程を組むのが一般的かもしれません。ただいづれにしても、それぞれの地域に様々な年代の雛人形が揃っていますので、一つの地域でもお雛さまの美しさを十分ご堪能いただけます。
日本海側庄内地域は、鉄道は上越新幹線新潟駅乗換えが一般的であり、羽越線が新潟から、村上、鶴岡、酒田、羽後本荘、秋田と、日本海沿岸の都市を結んでいます。道路も国道7号線で結ばれており、新潟県中条市まで延伸されている上越・北陸自動車道の整備により、首都圏からの車での移動も改善されています。
また、山形には空港が二つあります。庄内空港は東京から4便体制で運航されており、こうした空の利用も貴重な時間を無駄にしない方法かもしれません。
[ヒント:城下町村上市には旧い町屋が残っており、ここで開催される“町屋の人形さま巡り”は、しっとりとした風情が人気のコースです。村上市から北上する羽越線は車窓から日本海の荒波を見ることができます。こうした日本海側の都市はもちろん北前船の影響を強く受けていますので、村上市から羽越線沿いに北上するのも楽しいコースになること請け合いです。]
内陸3地域(置賜、村山、最上)は、首都圏からのアクセスが庄内地域とは少し異なっています。この地域の主要都市は全て山形新幹線の停車駅ですので、鉄道での移動は至便です。各地域の中心都市は、置賜地域が米沢市、村山地域が山形市、最上地域が新庄市ですが、これ以外にも沿線には天童や東根などの駅もあり、首都圏からJRを利用してお出でになる場合、それぞれ目的の駅で下車いただければ事足ります。また、少し離れた施設へも主要駅からバスや観光タクシーが充実していますので、これらの交通機関を利用すれば簡単に着くことができます。
また国道13号線は、県の東側(内陸地方)を縦貫する大動脈で、置賜、村山、最上と3つの地域をほぼ直線で結んでいます。高速道の整備により、仙台から山形まではバス便が運行本数も多くほとんどストレスを感じないほど充実しています。この山形自動車道の整備は、さらに村山地域から庄内地域へのアクセスも大幅に改善しこの間は約1時間の圏内となりました。また最上地域から庄内地域への移動も国道47号線経由で約1時間の距離であり、県内の移動は簡便です。
お雛さまの鑑賞に旅の楽しみプラスアルファ!様々なコース設定が可能です。
| ヒント1 | : | 山形新幹線で米沢から順次北上して新庄へ。上杉藩30万石の城下町米沢市探訪の後、山形市の山寺見学、最上地域の銀山温泉入浴など魅力的なメニューも加味しながら歩くのもいいかも。 |
| ヒント2 | : | JR東北新幹線仙台下車後高速バスで山形経由庄内へ。村山地域の紅花とお雛さまを勉強した後、高速バスで庄内ひな街道見学。高速バスでさくさくっと移動。 |
| ヒント3 | : | 山形新幹線で新庄市へ。最上川舟下りなどを楽しみながら庄内へ。 |
【山形県って? 山形県は、東北地方の日本海側に位置し、東京から概ね北に300km、山形新幹線で約3時間の距離にあり、一般には、全国生産量の7割を占める「さくらんぼ」と鮮やかな四季で知られています。
蔵王、月山、鳥海、吾妻、飯豊、朝日と日本百名山に数えられる秀麗な山々に囲まれ、南から連なる米沢、山形、新庄の各盆地と庄内平野を「母なる川」、最上川が流れる、美しい自然に恵まれた地域です。そこでは、人の住む集落、市街地と農地や里山が綾をなし、自然と人間が調和して存在する、「もう一つの日本」が広がっています。
江戸時代、俳聖・松尾芭蕉は「奥の細道」の全行程156日のほぼ三分の一にあたる43日間を山形県で過ごし、その旅は出羽三山を目指した「心の旅」とも言われるように、いにしえの昔から、山形県は精神文化の地とあがめられてきました。
全国第9位の93万haの県土面積は、その地勢や江戸時代の幕藩体制のなごりから、方言や食べ物など、文化も少しずつ異なり、南から、置賜(おきたま)、村山(むらやま)、最上(もがみ)、庄内(しょうない)の4つの地域に大きく区分されています。
(山形県の概要:山形県庁ホームページより抜粋
URL http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/profile.html) 】
雛の特設サイト紹介
| ☆ | やまがたの雛特集(山形観光物産協会) http://www.yamagatakanko.com/feature/theme/hina/ |
| ☆ | やまがた雛のみち(山形県村山地方) http://www.pref.yamagata.jp/ou/sogoshicho/murayama/301042/hinaroad.html |
| ☆ | 町屋の人形さま巡り(村上市観光協会) http://www.city.murakami.niigata.jp/kanko/ningyou/ |
| ☆ | 河北町“谷地ひなまつり” http://www.town.kahoku.yamagata.jp/oshirase2/hina_top.html |
