庄内十四万石
鶴ヶ岡城

鶴岡は、江戸時代に庄内藩主酒井氏十四万石の城下町として町割され、発展してきた町である。市の中心である鶴岡公園は鶴ヶ岡城の跡で、本丸・二の丸の水堀と土塁の一部が僅かに当時の面影を残している。
この地は、古くは大泉庄といい、源頼朝の奥州征伐後、関東御家人の武藤氏平が、大泉庄の地頭に任ぜられて大泉氏を称した。当地に土着したのは、その系譜を引くといわれる武藤長盛で、室町時代初め頃と推定されている。その後武藤氏は、乱流する赤川と深田によって囲まれたこの自然の要害を根拠地として、庄内地方に勢力をふるった。しかし風雲急を告げる戦国時代末期になると、より賢固な地を求めて大浦城(元鶴岡市大山の太平山)に居城を移している。
戦国の覇者・武藤義氏が天正十一年(1583)近臣・前森蔵人の謀反によってあえない最期を遂げると、庄内地方は内乱状態となり、やがて越後・上杉氏の領国に編入された。天正十八年(1590)庄内の地侍たちが、太閤検地に反対して蜂起した時、大宝寺城番芋川越前は、一揆勢によって放逐され、藤島城と共に、その抵抗拠点となっている。一揆を鎮圧した上杉氏の重臣・直江兼継は、大宝寺城を再興し、越後侍を在番させた。

関ヶ原合戦で徳川方に属し、慶長六年(1601)庄内三郡を加増された山形城主の最上義光は、この城を将来の隠居所と定めて城代・新関因幡に修築させ、城名も「鶴ヶ岡城」と改めた。酒田の浜で大亀が捕まったので、これを吉兆として、東禅寺城を亀ヶ崎城と改め、亀に対して鶴ヶ岡としたと伝わる。また、城の近くを乱流していた赤川の流路を変える工事を行って城下を洪水から守ると共に、三日町や五日町などを町立し、内川に初めて端を架けた。義光が病死した慶長十九年(1614)には、二の丸で亀ヶ崎城将・志村光清と大山城将・下秀実が、大坂方に通謀した反主流派の一栗兵部によって殺害されるという事件が起きている。
元和八年(1622)最上氏が内紛によって領地没収となり、代わって庄内十三万八千石を拝領したのが譜代大名の酒井忠勝である。
酒井氏は鶴ヶ岡城を居城と定め、酒田の亀ヶ崎城には城代を置いた。入国当初の鶴ヶ岡城は、萱屋根の粗末な御殿で、周囲の塀も大部分は柴垣や柵になっていて、二の丸に七軒ばかりの侍屋敷があるだけの小規模なものであった。鶴岡が一躍庄内の中心地となり、厖大な家臣団が集住することになったので、それにふさわしい本格的な築城と城下町作りが始められた。城の堀を広げ、土塁を高くして塀を設け、要所要所に石垣を築いた。その石は金峯山から切出されて舟で運ばれた。また町人町を始め、社寺や新形村・舞台村を城外に移して、新たに三の丸を縄張した。ここには百軒を越す侍屋敷を区画し、特に大手前には重臣を配し、そのほかに藩主の菩提寺大督寺や藩士の俸禄米を保管する七ツ蔵、御廐、御鷹部屋、行司屋などを置いた。後には、藩校致道館も政教一致の立場からここに移されている。本丸・二の丸には、政庁であり、また藩主の私邸でもある御殿をはじめとして、城門や角櫓・多聞櫓・武器土蔵・御金蔵なども建ち、城としての体裁が整ったのは、入国後五十年も経ってからであった。文政七年(1824)には、柿(こけら)葺であった城内の建物が全て瓦葺となった。

藩主酒井氏は、廃藩となるまで、十二代250年にわたってこの地を統治した。
明治九年には城は解体されて公園となり、本丸跡には藩主酒井氏の先祖忠次・忠勝(後には忠徳も合祀)を祀る荘内神社が建てられた。
昭和六十二年には、内堀護岸整備事業に伴い、本丸南西隅の試堀調査が行われ、鉢巻石垣や乱杭の遺構が確認された。延宝四年(1676)から七年にかけて設けられた土塁部の土留乱杭のうち、旧本丸の北東岸の部分は、今もほぼ原型を停めている。(鶴岡市発行「図録 庄内の歴史と文化」より 秋保 良/記)
戊辰戦争と庄内藩
奥羽越列藩同盟

慶応三年(1868)一月、京都鳥羽伏見ではじまった戊辰戦争は、戦線を関東・北陸・東北に移しながら、武力に訴える新政府軍と徳川に味方する旧幕府軍との間に激戦がくり広げられた。
同年四月、江戸開城後の新政府軍の矛先は、奥羽、とりわけ会津(松平)・庄内(酒井)二藩にむけられた。先年、会津藩主が京都守護職として「新撰組」をかかえて京都の治安にあたったように、同じ譜代の庄内藩が「新徴組(しんちょうぐみ)」を指揮して江戸の警護にあたり、尊王倒幕派の弾圧に終始した。
会津藩は戦備を整え、庄内藩と提携してこれにあたろうとした。庄内藩も攻撃を受けるものと覚悟していたので、守勢的であったが、領国の四境を固く閉ざし、新政府軍の侵入に備えていた。一方、仙台藩・米沢藩らは奥羽諸藩の力を合わせて、会津・庄内藩へのおだやかな処置を要求して奥羽列藩同盟を結成したが、新政府軍はあくまで妥協せず、交渉は決裂した。米沢藩はさらに新潟諸藩に同盟への参加を呼びかけ、この五月、奥羽越三十余藩の列藩同盟ができあがった。
酒田町兵の出陣庄内軍は七月から九月にかけて、列藩同盟を破り薩長連合の政府軍側についた燐藩に対し、激しい攻撃を加えた。新庄、本荘、横手を落とし、雄物川を渡って秋田城下に迫った。これには本間家の金策による新式鉄砲の大量輸入と武士達とともに従軍した農兵や町兵の勇敢な活躍があった。
庄内戊辰戦争録付録によると、この時の酒田の町兵は386名である。酒田町兵は一番隊から六番隊までは銃兵、七番隊が工兵(施設部隊)である。隊長にあたる小隊指令が亀ヶ崎城家中であり、副隊長以下隊の幹部は、三十六人衆があたっている。五番隊は兵器、弾薬などすべて自費で揃えた上出陣した義勇軍であり、黄金隊といわれた。庄内藩はこのような支援態勢のもとで戦争に突入していったのである。
庄内藩降伏−終戦慶長四年(1868)九月八日、元号は『明治』と改められた。新政府軍の主力は会津藩攻略においていたため、庄内藩は北方の秋田攻略では優位に立っていたものの、北越国境では苦戦を強いられていた。九月半ばになって庄内軍は一斉に撤退を開始した。これは新潟諸藩、会津藩、仙台藩、米沢藩の降伏などによって、薩摩・長州・佐賀などの政府軍が集中的に庄内藩境に進撃してきたからである。奥羽越列藩同盟はすでに敗れ、大勢はもはや頼む味方もなく、さらに領内の財政事情を考え、庄内藩は九月二十三日、米沢藩主を通して政府軍に謝罪降伏を申し出た。
九月二十五日、軍使が古口で政府軍参謀黒田了助(清盛)と会見、城を開き、藩主は城外で謹慎することなどを決め、寛大な条件で降伏、終戦となった。降伏条件は黒田の達し書きであったが、西郷隆盛の指導を受けたものという。二十六日、政府軍が酒田に入った。薩摩ほか長州、小倉、鍋島、秋田、新庄、本荘、矢島、加賀、出雲、肥後、筑前など約四千人(庄内へ入った総勢4万4850人、諸大名五十余家)を数えた。
薩摩の本陣は鐙屋(あぶみや)、長州は尾関宅であった。降伏調印のため西郷が米沢から鶴岡に入り、二十七日に黒田参謀とともに鶴岡城内および武器の点検を行った。
九月二十九日、庄内に進駐した政府軍は、酒田亀ヶ崎城内に民政局と軍務官を置き、戦後の政治を行った。十月、藩主酒井忠篤(ただずみ)は庄内藩十七万石を没収され、命令により東京の菩提寺柴清光寺に謹慎となった。
十二月、格別のはからいで、酒井家の名はそのまま立てられ、弟の忠宝(ただみち)に十二万石(五万石減)が与えられた。こうした異例とも言うべき寛大な処置には、終始、西郷隆盛の支持と配慮があったとして、庄内藩の深く感謝するところであった。(酒田市発行「ジュニア版 酒田の歴史」より)
南洲神社

酒田市飯森山にある南洲神社は、戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を指導した西郷南洲公の大徳に心から敬慕することとなる。西郷隆盛公を祀る神社を建立し、公の遺徳「南洲翁遺訓」を現在に伝え続けている。
昭和51年建立。総檜造り、銅板葺の神々しい社殿の用材は伊勢の皇大神宮より、払い下げを賜ったものである。南洲翁に関する遺墨、遺品、研究資料をはじめ、明治維新や荘内文学の書など数多く収蔵している。 (参考文献:財団法人荘内南洲会発行「南洲翁遺訓」)
『徳の交わり』銅像

西郷隆盛(南洲)翁
菅 実秀(臥牛)翁
西郷南洲翁の生地鹿児島の西郷屋敷にある銅像と全く同じものである。(平成13年建立)両翁の偉大なる業績を永く伝える。
--- 碑 文 ---
西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話しているこの座像は、鹿児島武西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」を誓い合ったことを記念して製作したものである。
庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していたが南洲翁の公明正大な極めて寛大な処分となった。
この南洲翁の大徳に感じ臥牛翁は明治八年自ら旧庄内藩士と共に訪鹿して南洲翁の教えを受け後にその教えを受けた人達の手記を集め「南洲翁遺訓」を発刊した。
旧藩主酒井忠篤公は数名の人を各地に行脚させ全国に頒布した。
南洲翁の偉大さに傾倒し生涯のすべてを尽くされた荘内南洲会の創始者である長谷川信夫先生の遺志を継ぎ今庄内の一角に両翁の遺徳を偲び不易の教訓である「敬天愛人」の精神を永く後世に伝えるため 有志相諮り浄財を募り対話の座像を建立した。平成13年9月吉日