交易の拠点・酒田湊
瑞賢と西廻り海運
■西廻り海運のおこり
西廻り海運とは酒田湊などを出帆し、日本海沿岸を西南に走り、赤間関(下関)から瀬戸内海に入り尾道などを経て兵庫・大坂(大阪)行き、さらに紀伊半島を遠回りして下田または浦賀を経て江戸まで行く海運のことである。この海運は幕府のある江戸に、出羽国幕府領の城米を輸送するために寛文十二年(1672)河村瑞賢によって整備されたものである。
この西廻り海運の航路は、この時になってはじめて開かれたというものではない。古くから開かれた瀬戸内海の航路、敦賀や小浜を基点とした日本海の北国海運、また伊勢湾海運などは近世の前から発達していた。さらに江戸幕府が開かれると江戸・上方間の海運もいち早く開かれ、大坂から江戸に日用品などを運んでいた。これらの航路をつなぎ、整備し、より安全に酒田から江戸まで城米を直送することが出来たのである。
■大津回米西廻り海運が整備される前、最上川沿岸の各藩の蔵米(領主米)や幕府領の城米を輸送する場合は、最上川を利用して酒田に下し、庄内地方の米は最上川・新井田川・赤川・藤島川・京田川などを利用して酒田に積み下ろし、酒田から海船で敦賀経由で大津・大坂・江戸に送られていた。
酒田に積み下ろした城米や蔵米は、藩によって酒田で売り払う、敦賀に送りそこで売り払う、または敦賀から陸路で琵琶湖に運び湖水を利用して大津に揚げ、淀川を下して大坂まで運んで売り払ったりしていた。一方城米は主として大垣(岐阜県)から桑名(三重県)に下げ、そこから再び海船に積んで江戸に運ばれていた。
■河村瑞賢の江戸回米寛文期(1661〜1673)になると江戸の人口が増え、米の需要が増すに従って何回も積み替えや蔵入りをしなければならない大津・桑名経由は人手がかかる上、米のいたみの多い他日数がかかった。さらに米の価格も高くなるということから、幕府は西廻りまたは東廻りで城米の直送を試みることになった。
瑞賢の考えた江戸への直送は、陸奥(青森県)の信夫郡と伊達郡、出羽の置賜・村山南部の城米を荒浜(宮城県阿武隈川の河口)に出して江戸に送り、村山北部・最上・庄内・由利の城米は、酒田から西廻りで江戸に送ろうというものであった。
■西廻り海運と酒田湊幕府は河村瑞賢に出羽国城米を江戸に回米することを命じた。
命令を受けた瑞賢は、安全にしかも早く回漕するために危険なところには水先案内船やのろしをあげさせて、城米船の保護をはかる一方、酒田湊に御公儀米置場(瑞賢倉)をつくり、寛文十二年(1672)五月二日、城米船は酒田湊を出帆。七月には海難事故もなく、相次いで江戸に到着した。
この西廻り海運の政策は酒田湊にどのような影響を与えたであろうか。
第一に、幕府が回米船を直接雇い、回漕に関係する責任を幕府側が持つことにした。これによって、これまでの商人に支払う請負料より運賃は安くなり、幕府にとっては有利であった。一方酒田湊にとっては、幕府が回米船として、上方の船を雇ったために湊は上方船で賑わったが、地元の船は抑えられ、地元船の少ない積み出し港となった。
第二に、御城米の最上川下しは、これまで「商人廻し」といって商人が請け負い、民間が運賃を負担していたが、川舟も幕府の雇船とし、「百姓廻し」といって年貢を納める農民の責任として、負担が新しく加えられ、ことのほか困窮した。
第三に、酒田に幕府が専用の米蔵(瑞賢倉)を造ったために、幕府負担の御城米保管料の節約にはなったが、その分酒田の蔵宿(くらやど)商人の蔵敷料(くらじきりょう)の収入が減った。
第四に、回米船の安全をはかるために、酒田湊の「案内番船」体制が整備された。これより早く酒田湊では、案内船「水戸教船(みときょうぶね)」が幕府領米を積む船や商船を案内し、案内料をとっていたのが城米船の入港税免除となるなど、幕府領米積み出しを中心に整えられていった。
このように、瑞賢による西廻り海運の整備は酒田湊、最上川水運に大きな変化をもたらした。
酒田湊の繁栄

河村瑞賢の西廻り海運の整備と、出羽国城米の集積地と積み出し湊となった酒田は、天下の台所である大坂と直結するようになり、上方船の出入りや最上川水運の発達によって大きく発展した。「天和御目附控(てんわおめつけひかえ)」には、天和期(1681〜1684)の酒田湊の賑わいが次のように書かれている。
「・・・・酒田湊には全国各地の船が出入りしているが上方からの商売ものが多かった。その中でも播磨(兵庫県)の塩、大坂・堺・伊勢(三重県)からの木綿類、美濃(岐阜県)からの茶が主な商品であった。さらに北方からは松前(北海道)の海産物、南部領の下北半島・津軽半島および秋田からの材木があり、北国からの船も多く・・・・」
天和三年(1683)の調べによると、酒田湊に入った船の数は川舟も含めて二五〇〇〜三千隻とあり、出入り船による酒田湊の賑わい振りが窺われる。

このように酒田湊に集まる物資が多いことから、町人の中には内陸にある藩の蔵米を保管する蔵宿を勤めたり、集まった物資を売りさばく問屋は次第に増えてきた。この問屋たちは資金と倉庫を持ち、商品の卸売買、商品の保管のほか、商人を宿泊させ商取引をしたり、中には船を持って物資の回漕などを行っていた。
また酒田湊の繁栄は、酒田町の戸数を増やした。明暦二年(1656)の戸数が千二七〇余軒であったが、天和三年(1683)には二千二五〇余軒となり、二十七年間に二倍近い増え方であった。この戸数の増え方が酒田の街区域を大きくし、元禄・宝永・亨保へと、酒田の湊町はますます大きくなっていくのである。(酒田市発行「ジュニア版 酒田の歴史」より)