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広域観光ルート−芭蕉と歩く出羽路
おくのほそ道原文
 元禄2年(1689年)3月27日(新暦5月16日)、俳聖松尾芭蕉は門人河合曾良を伴い、江戸深川の草庵を後にして“みちのく”への長旅に出発します。いわゆる「おくのほそ道」行の始まりです。全行程約2400キロ、150日間の日数を要した旅は、数多くの秀句を盛り込んだ古典的紀行文の最高傑作とも言える作品に結実しました。途中出羽の国には40日あまり逗留し、行程中最長の滞在となっています。近年の研究では、この出羽路での行脚が、芭蕉をして彼の俳諧文学における真理・理想である「不易流行」の概念に思い至らせる重要な意味を持つものだったのではないか、といわれています。つまり「おくのほそ道」で求めつづけた文学的なテーマが、この出羽路で完結されたということです。芭蕉が出羽路の旅の中で得た、不易流行に至る思考の萌芽とはどんなものだったのか、またそうさせた体験とは?芭蕉の足跡とともに紹介します。
 また、そうした文学的な思考過程とは別に、この出羽路における「おくのほそ道」の行程は、山形県の最上地方、村山地方、庄内地方、或いは秋田県南部、新潟県北部の代表的な名所、史跡を巡るコースをほぼ踏襲しています。芭蕉の足跡に沿って廻るコースは、山形や近隣各地の独特の食文化や名産と相俟って、“現在(いま)の旅”にも通ずる魅力的なコースとなっています。
 芭蕉は平泉から尿前の関(しとまえのせき)を越え、出羽の国に入ります。この出羽路での芭蕉の足跡を追い、風雅に富むみちのくの全コースを紹介します。



序:コース全容
 芭蕉は、現在の山形県最上町堺田から出羽の国に入りました。山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越え尾花沢に紅花商人鈴木清風を訪ね10日ほど逗留しました。その後山寺立石寺まで足を延ばしたあと、大石田、新庄を経て本合海から最上川を舟で下り、清川から庄内地方に入ります。羽黒山では、当時の別当代会覚阿闍梨(えがくあじゃり)からもてなしを受け7日間逗留しています。月山、湯殿山と出羽三山を巡拝したあと、鶴岡城下に3泊、酒田には9泊しています。その間象潟の蚶満寺を訪ね2泊したあと、酒田から大山と下り、温海を最後に鼠ヶ関から村上・越後路に向かいます。

 【ホワッツ「おくのほそ道」?:芭蕉が俳諧師を志した頃は、俳諧は滑稽さを主とした貞門俳諧と、言語遊戯的な談林俳諧の二つの大きな流れの中にありました。もともと二人でかけ合いののように詠む連歌から派生した俳諧ですが、当時はまだまだ遊びの域を出ない旦那衆の趣味的なものであり、芭蕉はこれを芸術の域まで高めるために努力を惜しみませんでした。この背景には敬愛する平安後期の漂白の歌人・西行法師の存在が大きかったことと、当時の俳諧師の世間的な地位にあったことと推察されます。当時の俳諧師は、いわば趣味講座の講師のような存在であり、その講師料を稼ぐためには、パトロンの機嫌をとったり太鼓持ちの様なことまでしなくてはならない人気稼業でした。そうした生活から脱皮するためと、西行のようにあくまでも風雅を求めんがための一大転機が「おくのほそ道」行だったのではないでしょうか。また、自身が求める俳諧の理念(後年、不易流行としてまとめる)を確立させるための旅であり、またそれを広く流布する目的もあったと考えられます。不易流行の概念は後の項でも触れますが、この旅は、芭蕉の地方門下生の家々を廻り、そうした門下生からの芳志が旅費の主たる原資でした。芭蕉の歩いたコースや宿泊先を辿ってみると、門人達の紹介によって一宿一飯にあずかるケースが多々あることに気付きます。つまり芭蕉ネットワークに大きく依存していたわけです。また、そうした門人や知人達に影響も受けています。特に出羽路で出会った人々は彼を暖かく迎え、後に彼が到達する不易流行の理念確立に確信的な裏付けを与えたり、後の軽みにつながる歌仙を主催したりと少なからぬ影響を与えています。「おくのほそ道」が彼の文学史上の中で決定的な位置をなすのは、芭蕉俳諧(蕉風俳諧)の確立であったことは疑いのないところですが、この陰に出羽の門人達の貢献があったことは、実に注目すべきことです。】
 
堺田・封人の家〜山寺〜新庄
 
新庄〜羽黒山〜鶴岡
 
鶴岡〜象潟〜酒田
 
酒田〜村上
 




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