西郷隆盛ゆかりの地 やまがた庄内

 開国後、国内では、薩摩・長州藩など倒幕派が台頭し、民衆の打ちこわしの激化などで政情が一段と混迷していました。社会不安が広がった文久3年(1863年)、庄内藩は幕府より江戸市中取締役を命ぜられ、幕府から預かった新徴組を従え、江戸市中の治安維持にあたっていました。当時の江戸市中は倒幕派の浪士による騒ぎで治安が乱れ、その浪士が薩摩藩邸に逃げ込むのが度々目撃されていました。慶応3年(1867年)12月、庄内藩が中心となり、三田の薩摩藩邸を焼き討ち。この事件を機に翌年1月3日「鳥羽・伏見の戦い」がおこり、戊辰戦争の引き金となったのです。

西郷隆盛と庄内のゆかりの始まり

  •                   西郷隆盛(右)と菅実秀(左)の対座像【南洲神社】

 戊辰戦争で庄内藩は、会津藩など東北・北陸の31藩と「奥羽越列藩同盟」を結び、新政府軍と戦います。庄内藩は、北前船で財をなした豪商、本間家の支援もあり、最新の武器をそろえ、秋田藩、新庄藩などを相手に奮戦します。負けることなく、戦況を乗り切りますが時勢には逆らえず、厳しい処罰を覚悟の上で慶応4年(1868年)9月に新政府軍へ降伏を申し出ました。しかし、参謀の黒田清隆より伝えられた庄内藩への処分はきわめて寛大なものであったといいます。

 庄内藩士である菅実秀は明治2年(1869年)のはじめ、新政府軍参謀であった黒田と東京で面会し、その寛大な措置へ感謝の意を伝えました。しかし、黒田は、その指示は自分によるものではなく、西郷隆盛によるものだといいます。黒田も含め、新政府軍の中では、庄内藩の反逆の危険性を考え、藩主は隣国の大名などに預けるべきだという意見が多くあった中、一貫して寛大な措置を指示したというのです。この話をきいた菅は、西郷隆盛が庄内の恩人であることを知り、その懐の広さに感銘を受けたのです。菅は、この後、明治4年(1871年)に西郷との対面が叶います。

西郷とともに鹿児島で眠る庄内藩士

  •                  西郷とともに庄内藩士も眠る南洲墓地(写真提供:鹿児島市)

 明治3年(1870年)旧庄内藩主である酒井忠篤は2名の使者を鹿児島へ送り、鹿児島への留学を乞う親書を薩摩藩主と西郷隆盛宛に持参します。面会が叶った際、西郷は誠実な人柄で使者に対しても丁重に対応したといわれています。その後、忠篤は旧藩士たちを引きつれ、鹿児島を訪れます。その中には旧庄内藩だけでなく、旧松山藩からの旧藩士も含まれ、その数は70余名にも及んだといいます。西郷へ教えを乞うと、薩摩藩士以外の入学を許さなかった自らの私学校に庄内の旧藩士だけは特別に入学を認められ、その教えを学んでいったのでした。

 明治10年(1877年)に西南戦争が起きた際、当時私学校で学んでいた旧藩士の伴兼之、榊原政治の2名は、帰郷の勧めを断り、西郷と運命を共にする従軍を志願し、熊本城攻撃、田原坂の戦いなどに参加し、両名とも遠く九州の地で戦死しました。二人は今も鹿児島市の南洲墓地に西郷隆盛とともに眠っています。

 西南戦争が始まった当時、西郷を助けんと血気にはやる旧藩士らを押さえたのは菅実秀でした。当時の政府には、西南戦争に呼応して庄内が反乱を起こすとの見方が強い中、ドイツ留学中であった旧藩主らの留守に庄内を焦土にはできないという思いがあったといわれています。また、庄内人は西郷の志を後世に伝えるために生きていかねばならないとの考えがあったとも伝えらています。

南洲翁遺訓と南洲神社

  •                             南洲神社

  •                           敬天愛人【南洲神社】

  •                        敬天愛人【鶴岡市内】

 明治22年(1889年)2月、大日本帝国憲法が発布され、これを記念して西郷隆盛の賊名が取り消され、正三位の位が贈られた。翌年、旧藩主忠篤や菅らは、これを機に「南洲翁遺訓」を編集、発刊し、旧藩士たちは「南洲翁遺訓」を背負い、全国各地を行脚して西郷の教えを広めました。

 「南洲翁遺訓」は、西郷を慕い、教えを受けた庄内藩の人々が学ぶ中で耳にした西郷の言行録です。その項目は41項目と追加2項目と短いものですが、そのひとつひとつの言葉が人々の心に刻み込まれています。
 その中でも第5項、七言絶句の4句目である「児孫のために美田を買わず」という言葉は現代でも有名です。また、第21項には学問の研究は「敬天愛人」を目的とするとあります。この四字熟語は西郷より以前からある言葉ですが、彼の座右の銘として有名となり、酒田市の南洲神社及び鶴岡市の松ヶ岡開墾場や市内にもその言葉が刻まれた石碑があります。

 この酒田市にある南洲翁、西郷隆盛をまつる「南洲神社」は、長谷川信夫氏が創建しました。彼もまた、西郷隆盛の教えに学び、それを心の支えとし、憧憬を寄せた一人です。昭和44年(1969年)には岩波文庫版の「南洲翁遺訓」を私費で頒布し、没する前年には、その数2500冊に達しました。昭和51年(1976年)に財団法人荘内南洲会を設立し、翌年にこの南洲神社を創建。境内には「敬天愛人」を刻んだ石碑のほか、西郷隆盛と菅実秀の対座像などがあります。また、南洲会館、南洲文庫も運営され、南洲翁に関する遺墨、遺品、研究資料をはじめ、明治維新関連の資料や庄内出身の偉人傑士の書画など数多く収蔵しています。

西郷隆盛と松ヶ岡開墾場

  •                            松ヶ岡開墾場

  •                          きせつりょうそうてんちしる

 さらに西郷隆盛は、松ヶ岡の開墾にも大きく関係しています。
初対面を果たした明治4年(1871年)以降、西郷隆盛と親交を深めた菅実秀は同年9月、廃藩置県により成った酒田県の「権大参事」(現在で言う副知事にあたる地位)に任命され、明治5年(1872年)には、この開墾事業について西郷の判断を仰ぎ、相談のうえで松ヶ岡の開墾事業を開始します。旧藩士ら約3,000人が月山西麓の原生林311haを開墾し、桑園を造成しました。それまで刀を持っていた武士たちが刀を鍬に持ち替え、慣れない鍬を庄内藩のため振るったのです。

 廃藩後、多くの武士が生活の手立てを失い、武士の職を創出するため「士族授産」がこの頃、活発に行われていました。松ヶ岡の開墾もそのひとつ、成功例との意見もある一方で、この松ヶ岡開墾は「士族授産」には含まれないともいわれています。それは、開墾当初から約10年間、給料が出なくとも多くの旧藩士が働いたことから、生活のためだけに鍬を振るったのではなく、産業を興し、庄内藩の名誉、誇りのために多くの旧藩士が動いたとされるからです。しかし、開墾の道のりは当然容易いものではなく、想像を絶する作業に逃げ出す者もいたといいます。

 そんな中、養蚕業を奨励した西郷が贈った「気節凌霜天地知」(どのような艱難辛苦も、それをしのぐ強い志を以ってあたれば、必ず道は開ける)という言葉が開墾している旧藩士たちの心の支えとなりました。この言葉は、「松ヶ岡開墾場綱領」の中に今もなお記され、松ヶ岡の人々に受け継がれています。また、松ヶ岡のほとんどの家には、西郷の肖像画が掲げられており、その思想と精神が今に伝えられているのです。


■松ヶ岡開墾場を含む庄内の絹織物産業は、平成29年に日本遺産に認定されました。
【サムライゆかりのシルク 日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ】
山形県鶴岡市を中心とする庄内地域は、旧庄内藩士が刀を鍬に替えて開拓した、松ヶ岡開墾場の日本最大の蚕室群をきっかけに国内最北限の絹産地として発達し、今も養蚕から絹織物まで一貫工程が残る国内唯一の地です。
鶴岡市では、松ヶ岡以外にも六十里越古道沿いの田麦俣集落に、四層構造で暮らし・養蚕などが一つの建物にまとまった多層民家が現存しています。さらに、国内ではここだけの精練工程が明治時代創業の工場で行われるなど、絹産業の歴史、文化が保存継承とともに、新たな絹の文化価値の創出にも取組んでいます。鶴岡を訪れると、先人たちの努力の結晶である我が国近代化の原風景を街並み全体を通じて体感することができます。(申請書ストーリー概要より引用)

             日本遺産「サムライゆかりのシルク 日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ」特集ページ↓

西郷隆盛と現在のゆかり

  •                           徳の交わり

 戊辰戦争に敗れた庄内藩に対し、寛大な措置を指示した西郷に感銘を受け、さらにその人徳に心服した藩主酒井忠篤や菅実秀をはじめとした庄内の人々との「徳の交わり」が、鶴岡と鹿児島の交流のはじまりです。鹿児島を訪れ、教えを受けるとともに寝食をともにする様子は「敬すること兄のごとく、親しむことは弟のごとき」であったといいます。

 両市に庄内鹿児島会と鹿児島庄内会が誕生し、昭和44年(1969年)には、兄弟都市の盟約を結びました。通常、盟約を結んだ都市は、姉妹都市と呼ばれますが、菅実秀と西郷隆盛のゆかりで結ばれた両市はそれにふさわしく「兄弟都市」と呼ばれています。
 青年国内研修生の交流や親善使節団の相互訪問、兄弟校の提携、中学生親善使節団の相互派遣、5年ごとには盟約記念式典、鹿児島市電においては鶴岡号の運行、庄内空港においては開港25周年記念事業として貸切チャーター便での鹿児島市訪問ツアーなど現在に至るまで多彩な方法で親交を深めています。


■西郷隆盛とのゆかりをまとめたパンフレットを作成いたしました。
 「やまがた庄内 西郷隆盛ゆかりの地」
 http://www.mokkedano.net/file/show/28079

南洲神社

昭和51年6月に竣工した総桧造、銅板葺の神殿です。
西郷隆盛の遺徳をたたえ、南洲翁に関する遺墨、遺品、研究資料をはじめ、明治維新や荘内文学の書など数多く収蔵しています。

住所:山形県酒田市飯森山2-304-10
お問い合わせ:南洲神社
TEL:0234-31-2364

庄内藩校 致道館

庄内藩の士風の刷新と、優れた人材の育成を目的に、文化2年(1805年)酒井家九代目藩主・忠徳公が創設した藩校です。
戊辰戦争で庄内藩が降伏後、致道館にて新政府軍参謀の黒田清隆と庄内藩主酒井忠篤が会見しました。

住所:山形県鶴岡市馬場町11-45
お問い合わせ:庄内藩校 致道館
TEL:0235-23-4672

松ヶ岡開墾場

明治維新後の1872年(明治5年)旧庄内藩士が刀を鍬にかえて開墾した場所。
松ヶ岡開墾記念館、庄内農具館、カフェ、庄内の米造り用具収蔵庫、庄内映画村資料館などがあります。

住所:山形県鶴岡市羽黒町松ヶ岡29
お問い合わせ:松ヶ岡開墾場
TEL:0235-62-3985

致道博物館

かつての鶴ヶ岡城の三の丸、庄内藩主酒井家の御用屋敷だったところを博物館として公開しています。
国指定重要文化財の旧西田川郡役所の郡長室等には、戊辰戦争や西郷隆盛と庄内の資料などが展示されています。

住所:山形県鶴岡市家中新町10-15
お問い合わせ:致道博物館
TEL:0235-22-1199

清河八郎記念館

新徴組は、庄内町出身で新撰組の生みの親と言われる清河八郎が設立に関与しています。
尊王討幕の魁といわれ、明治維新に大きな役割を果たした清河八郎にゆかりのある遺品等を収蔵・展示しています。
また近隣の歓喜寺には、清河八郎と妻・お蓮(れん)の墓が並んでいます。

住所:山形県東田川郡庄内町清川字上川原37
お問い合わせ:清河八郎記念館
TEL:0234-57-2104

参考資料等

山形新聞『やまがた再発見355~357』
 (山形大学基盤教育院教授 山本陽史氏)
『刀を鍬にかえて 松ヶ岡かいこん物語り』
 (企画・編集・制作 鶴岡まちづくり塾 羽黒グループ)
鹿児島市公式サイト


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