
荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~
日本海沿岸には、山を風景の一部に取り込む港町が点々とみられます。そこには、港に通じる小路が随所に走り、通りには広大な商家や豪壮な船主屋敷が建っています。また、社寺には奉納された船の絵馬や模型が残り、京など遠方に起源がある祭礼が行われ、節回しの似た民謡が唄われています。これらの港町は、荒波を越え、動く総合商社として巨万の富を生み、各地に繁栄をもたらした北前船の寄港地・船主集落で、時を重ねて彩られた異空間として今も人々を惹きつけてやみません。(申請書ストーリー概要より引用)
【構成文化財(酒田市)】
①日和山公園 ⑥本間氏別邸庭園-鶴舞園(本間美術館)
②旧鐙屋 ⑦塞道絵幕(大壽和里大祭事)-酒井候御安堵祝宴-
③本間家本邸(本間家旧本邸) ⑧酒田山王祭祭礼用亀笠鉾(山居倉庫)
④山王くらぶ ⑨酒田袖之浦・小屋之浜之図
⑤相馬屋主屋(相馬樓) ⑩雛めぐり(酒田市内の各施設)
酒田湊に繁栄をもたらした北前船
江戸時代になると、最上川流域でとれた米を安全かつ効率的に江戸へ運ぶため、西廻り航路が整備され、酒田湊はより一層栄えました。
西廻り航路とは、米の積出港である酒田湊を出帆し、日本海沿岸を南西に走り、下関から瀬戸内海を経て、天下の台所といわれた大阪、さらに紀伊半島をまわって、最大の消費地である江戸まで行く海運のことで、北前船と呼ばれる大船が酒田湊を頻繁に出入りし、酒田は湊町としてますます繁栄していきました。
北前船の交易により「西の堺、東の酒田」といわれるほど酒田湊は栄えました。
様々な文化をもたらした北前船の積み荷
最上川流域でとれた庄内米はもちろん、瀬戸の塩、大坂・伊勢の木綿や古着、出雲の鉄、津軽・秋田の木材、北海道の鰊(にしん)や昆布、さらには寺の仏像や梵鐘、伊万里の器、お雛様など当時の国内における地域間価格差を活かした「のこぎり商い」でありとあらゆる品が北前船によって各地にもたらされました。
酒田湊は、これによる先進的な上方文化を積極的に取り入れ、現在でもその文化が酒田には根付いています。
酒田湊 廻船問屋の鐙屋
酒田湊の歴史は古く、源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏ゆかりの36人の武士が酒田に落ちのび、やがてその子孫たちによって組織された酒田三十六人衆が力を合わせて街づくりを行い、湊の礎を築いたと伝えられています。
北前船で財を成した廻船問屋の鐙屋は、酒田三十六人衆の筆頭格として町年寄役を勤め、町政に重要な役割を果たしました。
酒田市にある「旧鐙屋」は、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝えています。屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りとなっており、内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が並んでいます。当時の鐙屋の繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されたほどでした。
旧鐙屋には、当時の様子が描かれた幕絵、「塞道絵幕(大壽和里大祭事)-酒井候御安堵祝宴-」も展示されています。
北前船の交易により日本一の大地主となった本間家
酒田の本間家は、本間家中興の祖といわれる三大当主光丘の時代に、北前船による江戸・大坂への米の出荷と、帰り荷で仕入れた日用生活必需品を販売する「のこぎり商い」で店を大きくし、大名に貸し付けをするまでになりました。
また、商いによって得た利益で冷害などによる荒れた土地や田畑を耕せるまで改良し、日本一の大地主として知られるようになります。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とまでうたわれました。
酒田の「山王祭」は、江戸時代の初めから広く親しまれてきた一大祭りですが、本間光丘は、この山王祭をもっと盛大にして酒田の町を賑やかにしようと、京都祇園祭の山鉾を模した「亀笠鉾」を京都の人形師に作らせ、船を使って京都へ運んできました。光丘の狙い通り、北前船による酒田の発展にともなって山王祭は年々盛大になり、祭とそれを彩る本間家の亀笠鉾の名声は遠く江戸、大坂にまで響き渡ったといいます。山王祭は現在でも「酒田まつり」と名前を変え、毎年5月20日に大祭が行われており、「亀笠鉾」は酒田夢の倶楽のミュージアムにて展示されています。
三代光丘の後を継いだ四代光道は、先代の事業を引きつぐとともに、自前の北前船を建造して商いを拡大しました。
さらに、酒田湊の港湾労働者の冬期失業対策のために別荘を造営。鳥海山を借景にした美しい回遊式庭園があり、そこに飛んできた鶴を見た庄内藩主酒井候によって、別荘は母屋を清遠閣、庭園を鶴舞園と名づけられました。
江戸時代には殿様のお休み処として、明治以降は皇室や政府要人の迎賓館として利用され、昭和22年からは戦後初の私立美術館本間美術館として酒田の文化の発展に貢献し続けています。